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    かけはし2021年2月1日号

政府防衛局の埋立て強行はね返そう


沖縄報告 1月24日

コロナ禍の中さらに強まる暴挙

沖縄 K・S

県の緊急事態宣言と現地行動の休止


 1月19日、玉城デニー知事はコロナの感染拡大に対し県独自の緊急事態宣言を出した。期間は1月20日から2月7日まで。警戒レベルを第4段階(感染蔓延期)に引き上げ、不要不急の外出を控え、特に午後8時以降は自粛の徹底を求めた。直近1週間(14〜20日)の人口10万人当たりの新規感染者数が4489人で、過去最多となった。県民の社会・経済活動は大きな制約を強いられている。埋立工事関係者にも感染者がでているが、1月20日には米海兵隊キャンプ・シュワブで米兵43人の新規感染者が発生した。1月21日現在、県の累計は6759人、米軍は872人である。
 政府防衛局は、一日当たりの工事の規模を小さくするとか工事の速度を落とすとかの対策をとるどころか、逆にここぞとばかりに、埋立工事のスピードアップに躍起になっている。K9護岸、K8護岸にスパッド台船を係留し、ダンプによる土砂積み下ろしの効率化を図るとともに、大浦湾に運搬船8隻分の土砂を積載することのできる備蓄船を配備したのに続き、1月20日からは、本部半島の土砂を搬出する本部塩川港で、これまでの港の南側部分に加えて新たに北側部分を使用して土砂の搬出を始めた。その結果、塩川港の3分の2が辺野古埋立事業に占有されることになる。本部港管理事務所は「離島向けの搬出を妨げないことを条件に許可を出した」といっているが、影響がないわけがない。行政は甘い、権力に弱い。この日、南北合わせてダンプ259台分の土砂が塩川港から搬出された。
 沖縄県の緊急事態宣言に伴い、オール沖縄会議(共同代表=稲嶺進、高里鈴代はじめ7人、事務局長=福元勇司)と現地闘争部は2月9日までの辺野古、安和、塩川、海上、浜テントの現地行動の休止を決めた。ただし、監視行動はそれぞれ継続する。

玉城デニー知事が米新政権に書簡

 米新政権が発足するのに合わせて、沖縄県はワシントン事務所を通してバイデン大統領とハリス副大統領あてに沖縄基地に関する知事の書簡を届けた。琉球新報(2021・1・22)によると、書簡は、沖縄の抱える過重な基地負担や被害の実情を説明し、基地負担の軽減に配慮してほしいと述べ、70%以上が反対した県民投票の結果や軟弱地盤に触れ、辺野古新基地建設を再検討するよう求めている。沖国大教授の佐藤学さんはタイムス(2021・1・21 )で、「トランプは新たに地上軍を派遣する戦争をしなかった。支持基盤が国外での軍事行動で命を落としてきた層であるためだ。辺野古を止め、沖縄を米中軍事対決の最前線にしないため、民主党左派だけでなく共和党議員とも関係を構築すべき」と提言している。
また沖縄県は、昨年防衛局から申請されたサンゴ移植に対し、1月22日、「移植の必要性、妥当性が認められない」として「不許可」の決定を行ったことを発表した。「現行の計画では軟弱地盤の改良工事はできず、出来ない工事の環境保全措置は必要ない」ということだ。沖縄県は日本政府と対等の立場にある。独立した行政主体として、いわば「独自の政府」の役割を国内外に対して積極的に果たすことが未来を切り開く力となる。自己決定権を手にする闘いはこれからも困難を極めるだろうが、県民ぐるみの声を基盤に行政と現場の協働をつくり上げて行かなければならない。
海上行動は18日月曜日、カヌー4艇、抗議船2隻が海に出てK8護岸で行動し、カヌーがフロートを越えて土砂搬入に抗議したが、翌日から抗議船による監視行動に切り替えた。琉球セメント安和桟橋の出入口ゲート前でも、ノボリもマイクもなくプラカードを持ち意思表示をするだけの行動となり、辺野古のキャンプ・シュワブゲート前でも、マイクなし、座り込みの椅子の数も少ない控えめの監視・抗議行動となった。
しかし、政府防衛局は遠慮なしに埋立工事を強行している。沖縄選出国会議員で構成するうりずんの会とオール沖縄会議は共同で、「緊急事態宣言中、特にクラスター発生の基地と県民の生活圏の間での人の移動を止めるため、キャンプ・シュワブを閉鎖し、辺野古新基地建設工事を直ちに中断すること」を間もなく沖縄防衛局に申し入れる予定だ。

宮古島市長選に勝利、浦添市長選へ


1月17日投開票の宮古島市長選は、保革共闘「ワンチームみゃーく」の座喜味一幸さんが、自公の現職を破って当選した。
投票率と得票数は次の通り。
投票率 65・64%
座喜味一幸 15757
下地敏彦  12975
また、同時に行われた市議補選(2人)では、宮古島の自衛隊配備に反対する下地茜さんが1万57票を獲得しトップ当選した。
県の緊急事態宣言と現地行動の休止はしばらく続くが、その間、2月7日投開票の浦添市長選が実施される。「埋立反対!軍港は那覇にも浦添にもいらない」と訴える伊礼悠記候補の運動が大きな盛り上がりを見せている。また、埋立に反対する市民団体「里浜を22世紀につなぐ会(里浜22)」が港川自治会の銘苅会長の呼びかけで発足した。軍港だけでなく、那覇港の増設やリゾート開発にも反対し、訴えを広めて行くという。

1・20高江機動隊訴訟の証人尋問

 1月20日、午前10時から午後3時まで、那覇地裁で、2016年7月の高江への全国からの機動隊派遣の問題を問う住民訴訟の証人尋問が行われた。この訴訟は、高江ヘリパッド建設工事を強行するため全国から派遣された500人の機動隊への県費の支出の違法性を問う住民訴訟であり、形式上、沖縄県玉城デニー知事が被告となっている。
県警側からの証人、当時の重久警備部長、片桐会計課長、喜納警備2課次席に対する尋問と、住民側のやんばるに住むGさんの証言が行われた。
沖縄県公安委員会から機動隊の派遣要請が行われたのが2016年7月12日だが、5月頃から県警は警視庁と派遣の下準備を行っていたことが明らかになっている。この日の尋問では、「公安委員会の頭越しに派遣対象県、期間、人数を決める根拠は何か」「警視庁との交渉は誰がどのように行ったのか」「会計決済は誰が行ったのか」など、具体的で鋭い質問が浴びせられた。詳しくは、原告の一人、北上田さんのブログ「チョイさんの沖縄日記」(2021・1・20)。
開廷を前に、傍聴席24に対し抽選には94人が並んた。ところが開廷すると傍聴席は7〜8席空いていた。以前にも警察関係の裁判で、傍聴券だけを取って傍聴に来ない例があったそうだ。警察側が大量動員して傍聴券を確保し傍聴しないとすれば、原告側の傍聴を阻止するための卑劣な行為だ。

1・21森の映画社取材拒否訴訟判決

 1月21日午後、福岡高裁那覇支部で、森の映画社県議会取材拒否事件の控訴審判決が行われた。法廷には原告の藤本監督と3人の弁護人、取材の記者4〜5人と傍聴の7人。判決は「控訴棄却」。判決文の読み上げは30秒とかからず、裁判官はそそくさと退場した。
その後、城岳公園で報告集会が開かれた。弁護人が判決文を紹介しながら、判決の内容を厳しく批判した。藤本監督は「取材拒否はどうしても認められない。上告する。国民の知る権利がおろそかにされている。沖縄県議会は全国でも最も公開性が低いのではないか。開かれた県議会にするために争う。政府・米軍は国民の知る権利・報道の自由を制限しようとしている。キャンプ・シュワブのドローン撮影も、施設の安全に重大な懸念があるとの理由で不許可にした。ドローンでどんな危害があるというのか。つまり見させない、目をふさぐということだ。とんでもない」と怒りを表した。
弁護人も「公開と取材・報道の自由は民主主義にとって不可欠だ。全国で県議会の公開に関して争われている事件はない。この訴訟はその点でも意義がある。裁判に勝ちたい」と決意を語った。
12月20日(日)午後1時半から、なは市民協働プラザで、「日本軍による中国侵略と沖縄を考える映画と意見交換会」が開かれ、約50人が参加した。はじめに、南京・沖縄をむすぶ会共同代表の稲垣絹代さんがあいさつに立ち、南京の「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」に関する資料説明を行った。
そのあと『天皇の名のもとに―南京大虐殺の真実―』(ビデオプレス、50分)の上映が行われた。この映画は、アジア系米国人作家、クリスティン・チョイとナンシー・トンが1992年から3年間かけて映像資料を発掘し、100人近くにインタビューを行い作成したもので、元日本軍兵士の証言、生き残った中国人被害者の証言、当時南京に住んでいて難民救助に当たったマギー牧師の映像やミニー・ヴォートリンの日記、日本・米国の研究者の発言など、さまざまな角度から南京大虐殺を検証した映画だ。
映し出される生々しい映像や証言に参加者は静かに見入った。映画のあと10分間の休憩と換気をはさんで、第2部 報告と意見交換に移った。

南京大虐殺83年 
映画と意見交換会に50人

南京・沖縄をむすぶ会について

 「私たちは、南京・中国の人々とどのように手を結んで行くことができるのか?」と題する報告は、パワーポイントを使って、むすぶ会事務局長の沖本裕司さんが行った。
むすぶ会は昨年10月、南京市在住の日本語通訳ガイドで元南京国際交流公司の日本担当、戴国偉(タイ・グオウェイ)さんの沖縄訪問をきっかけに結成された。戴さんは平和の礎をはじめ戦跡と基地や辺野古ゲート前の座り込み現場を回ると共に、「一市民の見る『南京事件』」と題して講演を行った。

戴国偉さんの講演から

?捕虜、非戦闘員、一般市民、女性に対する虐殺、放火、強姦、略奪など、日本で『南京事件』と言われていることは、中国では南京大屠殺と言っている。期間は主として、1937年12月13日から6週間。
?日本政府は当初、南京に手を出す考えを持っていなかったが、現地部隊はそれを無視して独走し、大本営は追認した。日本軍は兵站なしで南京へ進撃。現地調達の略奪が繰り返され、奪いつくし、殺しつくし、焼きつくすという事態に。
?南京には多くの日本人が来訪する。30万人虐殺を認めない人も多い。虐殺そのものがなかったという人もいる。30万人の証明は無理なことで、仮に、その数が10万にしても3万にしても大虐殺の事実に変わりがない。
?南京の被害者の人々は、傷つき苦しんだ自らの体験を日本からの訪問者に証言したあと、必ず『来てくれてありがとう』と述べる。しかし、南京を訪問する日本人はほんの一部に過ぎない。多くの日本人は知らないし、南京を訪問しない。

 報告は続く。戴さんの言葉は胸に突き刺さった。もはや手をこまぬいている訳にはいかない。その様な思いを抱いた仲間が集まりむすぶ会の活動が進められた。久米宏ニュースステーションの映像、NNNドキュメント「南京事件」「南京事件U」の上映、岩波ブックレット『南京大虐殺』の読書会を重ねてきた。昨年3月には南京訪問の計画を立て、航空券の手配と現地での日程の確定まで準備が進んだが、コロナのためやむなく中止となった。
日本の中国侵略には、沖縄からも数万の青年が動員され、多数死傷した。市町村史戦争編には、沖縄戦のみならず海外での戦争体験として、サイパンなどと共に、中国での戦争体験記録が多数掲載されている。それらの調査をもとに、冊子『県内市町村史に掲載された中国での戦争体験記を読む〜沖縄出身兵100人の証言〜』が6月に発行され、その後冊子の読書会が続いている。

中国侵略と沖縄戦の記憶の継承

 報告のあと、具志堅正巳さんが「二人のおじと父親の日中戦争と沖縄戦」、城間実さんが「父親のノモンハン体験から」と題して意見発表した。城間さんは、父親が那覇港で足止めされノモンハンでの日本軍の敗北を固く口止めされた事実を紹介し、「天皇の軍隊に『敗北』はあってはならないことだった。だから隠した」と語った。沖縄では、76年前の沖縄戦が今なお戦争体験者の証言を中心に現実感をもって語られ続けるのと同様に、県民の中国侵略が父親世代の体験を受け継いで語られ続けている。日本国家による中国侵略への動員と沖縄戦の苦しみの全県民的体験は、時が経過しても県民の記憶として受け継がれていくのである。
(講演要旨)

 

【訂正】「かけはし」1月25日号、4面沖縄報告「コザ反米暴動50年」の記事中、11・10ゼネストは1970年ではなく、1971年に訂正します。
当時、1972年沖縄返還は既定の事実だった。12月20日のコザ反米暴動に先立ち、復帰運動の蓄積、教公二法阻止闘争、全軍労の波状的なストライキなど1960年代の闘いの高揚を背景とし、米軍政と日本政府に対し沖縄の分断支配を打ち破るまでに上りつめた力関係は県民一人ひとりの気持ちの中に「沖縄をなめるなよ」という強い自覚と自信を植え付けた。
コザ反米暴動の翌1971年11月10日には沖縄で初めての歴史的なゼネストが10万人が参加して貫徹され、決起集会が行われた与儀公園には数万人の人々が結集し、勢理客の米軍基地までデモ行進をした。当時与儀公園は現在のように金網や花壇の区画などで整備されておらず、何もない、だだっ広い広場だったので、大人数が集まる集会には都合がよかったのである。米軍政末期・復帰前夜の沖縄情勢は水温に例えるなら、沸騰していたのだ。
5面「買春を容認する社会でいいのか」の記事、3段目「とりわけ、2012年に厚生省社会局生活課浅野史郎課長が呼びかけて、「婦人保護事業等の課題に関する検討会」を設置し、「婦人保護事業の現代的課題とその取り組みへの『提言』――婦人保護事業の充実・活性化に向けて、今後の討議のたたき台のために」(提案)を発表した」を「1989〜1992年にかけて社会局生活課浅野史郎課長が呼びかけて「交流会」として議論。20回の議論を経て、1992年に最終まとめ「婦人保護事業等の課題に関する検討会」を設置し、「婦人保護事業の現代的課題とその取り組みへの『提案』――婦人保護事業の充実・活性化に向けて、今後の討議のたたき台のために」(提案)を発表した」に訂正します。
1月18日号、8面「韓国は、いま」2段目18行「た役割は、男性平等委員会」を「性平等委員会」に訂正します。




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